珍場面ブログ
ホームページ「おちんちん映画リスト」と連携して情報の発信を行います。新ネタなどありましたら、随時記事にあげていきます。ホームページからの投稿も継続してお願いします。
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男性性の目覚め 「A HEAP OF TROUBLE」
「A Heap of Trouble」(2001年イギリス・スティーブ・サリバン監督)は、約4分ほどのショートフィルムだ。サリバン監督は、イギリスでテレビの仕事を経験し、自主映画の作製に取り掛かっている。
閑静な住宅地、一本道にはカーブとゆるやかな傾斜がある。交通量の少ない道なので、子供たちはサッカーをしたり、大人たちは井戸端会議をしたり。アイスクリームの移動販売車が音楽を流しながらやってきて、子供たちが集まっていく。そんな平和な住宅地に別の音楽が聞こえてくる。その音源はどんどんと近づいてくる。人々は不思議な音楽に警戒をしはじめる。そしてついに、その音源が目の前にあらわれる。
そこにあわられるのは、フリチンで歌いながら行進するおじさんたちだ。町は一瞬にして恐怖に襲われ、人々はパニック状態になる。これがもし一人の裸の男がひょっこり現れたというのであれば、怪しい奴だとみんなで取り押さえるだろう。しかし横一列に道を占有し、大声で歌いながら9人もの男が戦車のように行進してきたら、圧倒的だ。彼らがどこからやってきて、何の目的で裸で行進しているのかなんて考えている余裕もない。人々はなすすべがなく、逃げ惑う。なのに、男たちは行進に加わりたいという衝動に駆られる。まるでウィルスが伝染するかのように描かれている。
それにしても、このギャップは何ともいえないものがある。実際に行進している人たちは、その辺に居そうな普通のおじさんたちなのに、それが裸で堂々としている。行進する姿は、背中や、お尻や、男性器や、足などの各パーツが強調され、何ものをも寄せ付けない強さが伝わってくる。日頃の生活の中で、男というものは、子供をやさしく抱きかかえるお父さんや、子供たちにアイスを売る店主などの役割を演じているわけだ。一方で、男のシンボルを太陽の下にさらけ出して力強く行進することは、日頃は表にできない男性性を表現していると言ってもよいのではないか。そしてこの不思議な行進を目撃する男たちは、自分の内に秘めた男性性の目覚めを呼び起こすことになるのだろう。
以下のスティーブ・サリバン氏の公式ページと全編が掲載されているビデオのURLを紹介する。ただし、この映画をみて、万が一全裸になって外に飛び出したいという衝動に駆られても、責任はもてないので、ご了承いただきたい。
スティーブ・サリバン公式ページ(予告編)
A whole heap of Trouble(LiveVideo.com)
閑静な住宅地、一本道にはカーブとゆるやかな傾斜がある。交通量の少ない道なので、子供たちはサッカーをしたり、大人たちは井戸端会議をしたり。アイスクリームの移動販売車が音楽を流しながらやってきて、子供たちが集まっていく。そんな平和な住宅地に別の音楽が聞こえてくる。その音源はどんどんと近づいてくる。人々は不思議な音楽に警戒をしはじめる。そしてついに、その音源が目の前にあらわれる。
そこにあわられるのは、フリチンで歌いながら行進するおじさんたちだ。町は一瞬にして恐怖に襲われ、人々はパニック状態になる。これがもし一人の裸の男がひょっこり現れたというのであれば、怪しい奴だとみんなで取り押さえるだろう。しかし横一列に道を占有し、大声で歌いながら9人もの男が戦車のように行進してきたら、圧倒的だ。彼らがどこからやってきて、何の目的で裸で行進しているのかなんて考えている余裕もない。人々はなすすべがなく、逃げ惑う。なのに、男たちは行進に加わりたいという衝動に駆られる。まるでウィルスが伝染するかのように描かれている。
それにしても、このギャップは何ともいえないものがある。実際に行進している人たちは、その辺に居そうな普通のおじさんたちなのに、それが裸で堂々としている。行進する姿は、背中や、お尻や、男性器や、足などの各パーツが強調され、何ものをも寄せ付けない強さが伝わってくる。日頃の生活の中で、男というものは、子供をやさしく抱きかかえるお父さんや、子供たちにアイスを売る店主などの役割を演じているわけだ。一方で、男のシンボルを太陽の下にさらけ出して力強く行進することは、日頃は表にできない男性性を表現していると言ってもよいのではないか。そしてこの不思議な行進を目撃する男たちは、自分の内に秘めた男性性の目覚めを呼び起こすことになるのだろう。
以下のスティーブ・サリバン氏の公式ページと全編が掲載されているビデオのURLを紹介する。ただし、この映画をみて、万が一全裸になって外に飛び出したいという衝動に駆られても、責任はもてないので、ご了承いただきたい。
スティーブ・サリバン公式ページ(予告編)
A whole heap of Trouble(LiveVideo.com)
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裸ん坊が溶け込んだ風景
中国の子供たちが、川で湖でそして海で素っ裸で遊んでいる様子は、何度か紹介してきたところだ。それぞれに陽気で明るい姿を楽しませてくれる。
その中でも、特に僕が気に入ったのは、湖南省の鳳凰古城だ。美しい山があって、きれいな川があって、その川の上にまるでお城や街があるかのような神秘的な風景だ。人々は川とともに生活している様子が伝わってくる。
この鳳凰古城の風景画像はネットで検索してもらえれば大量に見つかるはずだ。そして川とともに生きる人々の姿も風景の中に入っている。川で楽しそうに遊ぶ子供たちも少なくないね。観光客がたくさん訪れるその場所であのに、中にはパンツなんて身に着けていない子もいる。裸ん坊が風景画の中に溶け込んで一体となり、よりいっそう神秘的な構図になっている。
風景写真の一例を紹介しよう
http://laiba.tianya.cn/laiba/images/14336268/12480554711378411652/A/1/m.jpg
http://laiba.tianya.cn/laiba/images/14336268/12480696761065230875/A/1/m.jpg
http://laiba.tianya.cn/laiba/images/14336268/12480697791233782396/A/1/m.jpg
これらは、行撮鳳凰シリーズの画像であり、以下のURLを参照いただきたい。山河と城、人々の生活の様子、子供たちの姿が、見事に写し出されている。
『旅游休闲』 [光影记录]行摄凤凰——用光影记录生活
このような神秘的な古城の様子を、一度自分の目で見てみたいと思う。
次のURLは、鳳凰古城を流れる川で稚魚を放流する様子を紹介している。観光地で魚資源の保護のために行っているのだろうか。そうした行事をする際に、川で遊んでいた子たちがその様子を見に来ている。カメラを構えている男性を取り囲む男の子の中にもパンツをはいてない子がいたりするようだ。
明天沱江河开始放鱼,你来吗?
その中でも、特に僕が気に入ったのは、湖南省の鳳凰古城だ。美しい山があって、きれいな川があって、その川の上にまるでお城や街があるかのような神秘的な風景だ。人々は川とともに生活している様子が伝わってくる。
この鳳凰古城の風景画像はネットで検索してもらえれば大量に見つかるはずだ。そして川とともに生きる人々の姿も風景の中に入っている。川で楽しそうに遊ぶ子供たちも少なくないね。観光客がたくさん訪れるその場所であのに、中にはパンツなんて身に着けていない子もいる。裸ん坊が風景画の中に溶け込んで一体となり、よりいっそう神秘的な構図になっている。
風景写真の一例を紹介しよう
http://laiba.tianya.cn/laiba/images/14336268/12480554711378411652/A/1/m.jpg
http://laiba.tianya.cn/laiba/images/14336268/12480696761065230875/A/1/m.jpg
http://laiba.tianya.cn/laiba/images/14336268/12480697791233782396/A/1/m.jpg
これらは、行撮鳳凰シリーズの画像であり、以下のURLを参照いただきたい。山河と城、人々の生活の様子、子供たちの姿が、見事に写し出されている。
『旅游休闲』 [光影记录]行摄凤凰——用光影记录生活
このような神秘的な古城の様子を、一度自分の目で見てみたいと思う。
次のURLは、鳳凰古城を流れる川で稚魚を放流する様子を紹介している。観光地で魚資源の保護のために行っているのだろうか。そうした行事をする際に、川で遊んでいた子たちがその様子を見に来ている。カメラを構えている男性を取り囲む男の子の中にもパンツをはいてない子がいたりするようだ。
明天沱江河开始放鱼,你来吗?
男女の違いを知る
子供が成長する過程で、男女の違いを認識する場面というものがあるだろう。昔のように大家族ならば、異性の兄弟などもいて、日常的に違いを実感できたのだと思う。弟や妹のおむつの交換なども手伝うことも少なくなかったはずだ。
核家族などということが言われて久しいが、現代のように子供が少なくなり、一人っ子なども多くなってくると、男女の違いを知るチャンスは少なくなっているかもしれない。いや異性のことがわからないだけでなく、銭湯などで同性の体を見ることもなくなっているだろう。それに加えて、テレビなどでも子供の裸はNGという風潮が強くなっていく。おむつ交換の場面すらテレビで修正をされることもある時代、子供たちは自分の体や異性の体をどのように理解していくのだろう。性教育でということもわからなくもないが、日常生活からかけ離れたものにならないだろうか。
映画の中では、男女の違いを知るという場面を描いているものもある。
「子供のころ戦争があった」(1981年斉藤貞郎監督)では、主人公の少年とハーフの女の子の交流が描かれている。戦争中の日本のため、アメリカ人と日本人のハーフの女の子は外に出ることが許されず、蔵の中に隠れて生活をしていたわけだ。その女の子を連れ出して川で遊んでいるうちに、主人公のパンツが脱げておちんちんが丸出しになる。蔵の中でしか生活をしたことがない女の子にとって、おちんちんとははじめて見るものだったのだろう。これが男女の違いだと考えるのではなく、自分がアメリカ人だからおちんちんがないのかという質問になっていた。このやりとりを通じて、はじめて男女の違いと認識することになる。
同じように男女で水遊びをする際に事件が発生する場面がある。「O ztracené lásce」(2001年チェコ・日本未公開)はテレビシリーズ作品で、寓話風ドラマだ。主人公が3人組の少年と一緒になり、川に入ろうとすることになる。二人の男の子は素っ裸で先に川に入っていったが、後ろを振り返って唖然とする。そう、主人公にはおちんちんがついていないのだ。主人公の本人は、なぜ皆が自分を見つめているのか理解できない。そのうち、男の子たちは主人公におちんちんがついてないと笑いはじめる。そう、主人公はそれまで自分が女の子だということをまったく理解していなかったようだ。男女の違いを知らないで育つと、こういうことになる。
男の子と女の子がそれぞれ違いがあることは知っていて、あえて性器を見せ合おうという場面もあり。子供というのは大人の真似をするもので、お医者さんごっこやセックスごっこなどをするようだ。
「ジャック・ドゥミの少年期」(1991年フランス)の子供たちは、ちょっとませている。男の子の兄弟二人は女の子を誘って屋根裏に進んだ。そこでお互いに服を脱いで楽しそうに抱き合っているのだ。ひょっとしたら、大人たちが屋根裏に女性を誘いこんで、変なことをしている場面を目撃したことがあるのかもしれないね。
もうひとつ、これも海外の映画で、「Báječná léta pod psa」(1997年チェコ・日本未公開) だ。この映画では、主人公の男の子が仲良しの女の子とお医者さんごっこをする。お医者さんごっこは、体のことを調べるので、服を脱ぐことになるわけだ。この映画のお医者さんごっこは、そのものずばり性器の見せ合いっこを意味していた。二人は向かい合い、最初に女の子のほうがパンツを脱いだ。主人公ははじめて女の子のあそこをみて、目を丸々として体が固まったままになってしまう。男女の違いに驚く主人公。次に主人公も脱ぐことになるわけだが、この映画では女の子の方は画面に映っているのに、男の子のおちんちんは映っていなかった。
核家族などということが言われて久しいが、現代のように子供が少なくなり、一人っ子なども多くなってくると、男女の違いを知るチャンスは少なくなっているかもしれない。いや異性のことがわからないだけでなく、銭湯などで同性の体を見ることもなくなっているだろう。それに加えて、テレビなどでも子供の裸はNGという風潮が強くなっていく。おむつ交換の場面すらテレビで修正をされることもある時代、子供たちは自分の体や異性の体をどのように理解していくのだろう。性教育でということもわからなくもないが、日常生活からかけ離れたものにならないだろうか。
映画の中では、男女の違いを知るという場面を描いているものもある。
「子供のころ戦争があった」(1981年斉藤貞郎監督)では、主人公の少年とハーフの女の子の交流が描かれている。戦争中の日本のため、アメリカ人と日本人のハーフの女の子は外に出ることが許されず、蔵の中に隠れて生活をしていたわけだ。その女の子を連れ出して川で遊んでいるうちに、主人公のパンツが脱げておちんちんが丸出しになる。蔵の中でしか生活をしたことがない女の子にとって、おちんちんとははじめて見るものだったのだろう。これが男女の違いだと考えるのではなく、自分がアメリカ人だからおちんちんがないのかという質問になっていた。このやりとりを通じて、はじめて男女の違いと認識することになる。
同じように男女で水遊びをする際に事件が発生する場面がある。「O ztracené lásce」(2001年チェコ・日本未公開)はテレビシリーズ作品で、寓話風ドラマだ。主人公が3人組の少年と一緒になり、川に入ろうとすることになる。二人の男の子は素っ裸で先に川に入っていったが、後ろを振り返って唖然とする。そう、主人公にはおちんちんがついていないのだ。主人公の本人は、なぜ皆が自分を見つめているのか理解できない。そのうち、男の子たちは主人公におちんちんがついてないと笑いはじめる。そう、主人公はそれまで自分が女の子だということをまったく理解していなかったようだ。男女の違いを知らないで育つと、こういうことになる。
男の子と女の子がそれぞれ違いがあることは知っていて、あえて性器を見せ合おうという場面もあり。子供というのは大人の真似をするもので、お医者さんごっこやセックスごっこなどをするようだ。
「ジャック・ドゥミの少年期」(1991年フランス)の子供たちは、ちょっとませている。男の子の兄弟二人は女の子を誘って屋根裏に進んだ。そこでお互いに服を脱いで楽しそうに抱き合っているのだ。ひょっとしたら、大人たちが屋根裏に女性を誘いこんで、変なことをしている場面を目撃したことがあるのかもしれないね。
もうひとつ、これも海外の映画で、「Báječná léta pod psa」(1997年チェコ・日本未公開) だ。この映画では、主人公の男の子が仲良しの女の子とお医者さんごっこをする。お医者さんごっこは、体のことを調べるので、服を脱ぐことになるわけだ。この映画のお医者さんごっこは、そのものずばり性器の見せ合いっこを意味していた。二人は向かい合い、最初に女の子のほうがパンツを脱いだ。主人公ははじめて女の子のあそこをみて、目を丸々として体が固まったままになってしまう。男女の違いに驚く主人公。次に主人公も脱ぐことになるわけだが、この映画では女の子の方は画面に映っているのに、男の子のおちんちんは映っていなかった。
巨根を見る
男というのは、どうしてもペニスの大きさや長さを気にするらしい。それこそ、馬のペニスがほしいというような話題が出てくるのも、大きなペニスの方がいいという考えが根底にあるからなのだろう。
巨根伝説を取り扱った映画としては「ブギーナイツ」をあげるべきだろう。35cmもある巨根を持って主人公はポルノ業界に入っていくという話だった。35cmのペニスといわれても、これは映画の話。ペニスの記録などを確認しても、実際のところは20cm台が精一杯だろう。
それでは、実際に大きなペニスの実物を見せてくれる映画があるだろうか。印象に残っているのはやはり「エニイ・ギブン・サンデー」(1999年アメリカ映画)だ。今でこそ男性器が映っている映画などは山ほどあるわけだが、昔の日本では、男性器や性毛、お尻ですら不思議な白い雲がかかっていて、一切見ることはかなわなかったのだ。その時代の変革を広く世に示したのがこの映画だ。
アメフトの試合後に更衣室に女性オーナーが入っていくと、黒人男性が素っ裸で立っているではないか。しかも修正がかかっていない。もし事前にそのことを知らないで映画を見た人は、突然ペニスが出てきて衝撃を受けたに違いない。しかも、15cmくらいはありそうな長大ペニスがぶらんぶらんしている。何だこれは、こんなもの見せていいのかと思ったはずだ。この映画の中では、ほかにもペニスの見えている場面はあるが、最初のこの長大ペニスがあまりにも鮮烈に記憶に残っている。
このように日本が新しい時代になったことを世に示した長大ペニスの持ち主は、黒人だった。ペニスの長さに個人差があるのも事実だろうが、人種間で比べると、ベースがまったく違うということになるだろう。黒人の場合はやはり長い例が多いと思う。
黒人のペニスを見ようとするならば、やはりアフリカで観察すればよくわかる。「残酷猟奇地帯」(1971年イタリア)では、アフリカのある部族の若者たちの踊りの場面があるが、みな長くてぶらぶらしているようだ。また「グレートハンティング」(1975年イタリア)では、やはりある部族の儀式の場面でしなやかにゆれる魚肉ソーセージのようなペニスがたくさん見られる。進行役が男の伸びたペニスをつまんで、竹筒の中に入れる。あとは自分で竹筒の中で精液を搾り出し、最後は川に流すのだ。本当にこんな儀式があるのか、真偽のほどはよくわからないけどね。
これ以外にも、「魔界の大陸」(1983年イタリア)では、部族の男たちが長いペニスをぶらぶらした状態で生活をしている。特に男たちが互いに化粧をしている場面では、特大アップで長くて先が細くなっているペニスが鮮明に見ている。しかしそれは性器という印象がわいてこない。どちらかというと交尾のための動物的な器官という印象がある。そういえば象のペニスに形が似ている。
巨根伝説を取り扱った映画としては「ブギーナイツ」をあげるべきだろう。35cmもある巨根を持って主人公はポルノ業界に入っていくという話だった。35cmのペニスといわれても、これは映画の話。ペニスの記録などを確認しても、実際のところは20cm台が精一杯だろう。
それでは、実際に大きなペニスの実物を見せてくれる映画があるだろうか。印象に残っているのはやはり「エニイ・ギブン・サンデー」(1999年アメリカ映画)だ。今でこそ男性器が映っている映画などは山ほどあるわけだが、昔の日本では、男性器や性毛、お尻ですら不思議な白い雲がかかっていて、一切見ることはかなわなかったのだ。その時代の変革を広く世に示したのがこの映画だ。
アメフトの試合後に更衣室に女性オーナーが入っていくと、黒人男性が素っ裸で立っているではないか。しかも修正がかかっていない。もし事前にそのことを知らないで映画を見た人は、突然ペニスが出てきて衝撃を受けたに違いない。しかも、15cmくらいはありそうな長大ペニスがぶらんぶらんしている。何だこれは、こんなもの見せていいのかと思ったはずだ。この映画の中では、ほかにもペニスの見えている場面はあるが、最初のこの長大ペニスがあまりにも鮮烈に記憶に残っている。
このように日本が新しい時代になったことを世に示した長大ペニスの持ち主は、黒人だった。ペニスの長さに個人差があるのも事実だろうが、人種間で比べると、ベースがまったく違うということになるだろう。黒人の場合はやはり長い例が多いと思う。
黒人のペニスを見ようとするならば、やはりアフリカで観察すればよくわかる。「残酷猟奇地帯」(1971年イタリア)では、アフリカのある部族の若者たちの踊りの場面があるが、みな長くてぶらぶらしているようだ。また「グレートハンティング」(1975年イタリア)では、やはりある部族の儀式の場面でしなやかにゆれる魚肉ソーセージのようなペニスがたくさん見られる。進行役が男の伸びたペニスをつまんで、竹筒の中に入れる。あとは自分で竹筒の中で精液を搾り出し、最後は川に流すのだ。本当にこんな儀式があるのか、真偽のほどはよくわからないけどね。
これ以外にも、「魔界の大陸」(1983年イタリア)では、部族の男たちが長いペニスをぶらぶらした状態で生活をしている。特に男たちが互いに化粧をしている場面では、特大アップで長くて先が細くなっているペニスが鮮明に見ている。しかしそれは性器という印象がわいてこない。どちらかというと交尾のための動物的な器官という印象がある。そういえば象のペニスに形が似ている。
小さいチンチンのコンテスト
チンチンが埋もれてしまうなど、太っていることは男として不利な要素が多いものだ。太っているといろんな成人病にもなりやすくなるという話もある。
しかし太っていることが有利なことはないわけでもない。相撲はスピードや技で勝負が決まる面もあるが、まず体が大きい方が有利であることは間違いない。したがって相撲取りは体を作ることにかなりの努力を重ねている。
太って不利だといったことを逆手にとった内容もあった。次の内容はまさにそういうものだ。
http://www.chrudat.com/hs_small_penis.html
これはハワード・スターンの企画したテレビ番組だ。ユダヤ系のスターンは、お約束の差別ネタや下ネタなどで笑いをとってきた。そしてここでは、何と小さいチンチンを競うコンテストを行っているのだ。普通なら自慢にならないようなチンチンなのだろうが、あえて小さいものにスポットをあててみたわけだ。このような不真面目な下ネタコメディ企画にこれだけの人が集まって、楽しそうにチンチンを披露しているのも面白い。
中には、小さいチンチンというよりも、まったく見えないという人もいて、会場が大笑いになっている。大きい方は見て比べるのは簡単だが、小さい方はゼロ以下ということもあり、見えないペニスでの戦いになってしまうね。
このようにペニスが小さいことを競う企画が成立するのであれば、太っている方が断然有利に決まっている。事実として、最終選考に残った3人はすべて肥満男だった。
しかし太っていることが有利なことはないわけでもない。相撲はスピードや技で勝負が決まる面もあるが、まず体が大きい方が有利であることは間違いない。したがって相撲取りは体を作ることにかなりの努力を重ねている。
太って不利だといったことを逆手にとった内容もあった。次の内容はまさにそういうものだ。
http://www.chrudat.com/hs_small_penis.html
これはハワード・スターンの企画したテレビ番組だ。ユダヤ系のスターンは、お約束の差別ネタや下ネタなどで笑いをとってきた。そしてここでは、何と小さいチンチンを競うコンテストを行っているのだ。普通なら自慢にならないようなチンチンなのだろうが、あえて小さいものにスポットをあててみたわけだ。このような不真面目な下ネタコメディ企画にこれだけの人が集まって、楽しそうにチンチンを披露しているのも面白い。
中には、小さいチンチンというよりも、まったく見えないという人もいて、会場が大笑いになっている。大きい方は見て比べるのは簡単だが、小さい方はゼロ以下ということもあり、見えないペニスでの戦いになってしまうね。
このようにペニスが小さいことを競う企画が成立するのであれば、太っている方が断然有利に決まっている。事実として、最終選考に残った3人はすべて肥満男だった。
肥満とおちんちんとの関係(3)
肥満とおちんちんシリーズの第一回では、「BRAINWASH」(1981年アメリカ・日本未公開)という映画でウォルター・オルケウィックのチンチンが小ぶりだという話をした。肥満になるとやはり脂肪に隠れて短くなる。この映画でもそうで、太さは確かにあるのだけれども、かなり短いようだ。そのため、チンチンは下に垂れずに前に突き出した形になっている。こんな感じで、太ったために短くなったということがわかる映画をあげてみよう。
「だめんず・コップ」(2001年アメリカ映画)では、ケヴィン・ヘファーナンがシャワー室でいじめられる場面がある。これもかなり短いというか、腹から亀頭の部分だけがちょこんと突き出ている状態だ。こちらも太さはある程度あって、短いだけという感じが伝わってくる。日本で出たDVDではその部分はカットされているのではないかという話もあるが、原題で探すなら「Super Troopers」だ。
「悪魔のえじき2」(2001年アメリカ映画)の肥満男といえば、ジョン・スピッチ。これがまた実に小ぶりなのだ。自分が短小だと思っている人は、ジョン・スピッチと比べてみてほしい。「うわ、チイサ!」ときっと思うだろう。それも、チンチン周りにたっぷりと脂肪がついていることによるのだ。
太り方が過ぎると、完全に脂肪に収納されることになる。タレントの松村邦洋は今でこそ健康に気をつけているが、以前は危険なくらい太っていた。その当時、テレビのトーク番組で、よくチンチンが見えなくなっていたという話をしていたと思う。それは、腹が邪魔で自分の視点から見えないということもあるし、一番ひどいときには腹の中に完全に埋没して、周りの人がみてもチンチンがある場所には穴があるだけという感じだったらしい。これと同じ状況を映画で見つけるとしたらどうか。
「ボラット」(2006年アメリカ映画)は、その類だろう。ボラットとアザマートの裸の格闘場面を見ているとそれがわかる。アザマートの立ち姿であれば、実際には腹が覆いかぶさって股間そのものがまったく見えていない。しかしアザマートが横になっている場面もあるのだ。そのとき股間が映っているのだが、玉袋が見えるだけで、チンチンは存在しない。というか存在はしているのだろうが完全に脂肪の中に収納されているのだ。
完全に埋没してなくても、太って短くなるなると見えなくなることがある。それは「ピーター・グリーナウェイの枕草子」を見るとわかる。これは、たくさん全裸の男が出てくる映画で、日本版は修正しまくりだったと記憶している。それぞれの男たちがそれにあったチンチンを見せているわけだが、この映画の最後に登場する相撲取り(ムロフシワタル)だけはちょっと違う。相撲取りの体には店主にあてたメッセージが書き連ねられている。店主がしゃがみこんで相撲取りのお尻の文字を読み終えると、相撲取りが店主の方向に振り返る。店主の目の前に自慢のチンチンを見せ付けるのかと思うのだが、実は何も見えていない。大きい腹と股間は確かに見えているけど、毛のようなものに隠れて映画の中ではチンチンは判別不能だった。
この相撲取りのチンチンは映画を紹介する画像では小さいなりにもちゃんと写っている。以下のページで確認できる。
http://www.tamaleaver.net/pb/pillow.html
チンチンは男の大事な部分であることは間違いない。それが埋もれてしまうなんていうのは、男としてはちょっと情けないだろう。もちろん、チンチンは人に見せるためのものではないのだから関係ないと言ってしまえば、それまでだけどね。
「だめんず・コップ」(2001年アメリカ映画)では、ケヴィン・ヘファーナンがシャワー室でいじめられる場面がある。これもかなり短いというか、腹から亀頭の部分だけがちょこんと突き出ている状態だ。こちらも太さはある程度あって、短いだけという感じが伝わってくる。日本で出たDVDではその部分はカットされているのではないかという話もあるが、原題で探すなら「Super Troopers」だ。
「悪魔のえじき2」(2001年アメリカ映画)の肥満男といえば、ジョン・スピッチ。これがまた実に小ぶりなのだ。自分が短小だと思っている人は、ジョン・スピッチと比べてみてほしい。「うわ、チイサ!」ときっと思うだろう。それも、チンチン周りにたっぷりと脂肪がついていることによるのだ。
太り方が過ぎると、完全に脂肪に収納されることになる。タレントの松村邦洋は今でこそ健康に気をつけているが、以前は危険なくらい太っていた。その当時、テレビのトーク番組で、よくチンチンが見えなくなっていたという話をしていたと思う。それは、腹が邪魔で自分の視点から見えないということもあるし、一番ひどいときには腹の中に完全に埋没して、周りの人がみてもチンチンがある場所には穴があるだけという感じだったらしい。これと同じ状況を映画で見つけるとしたらどうか。
「ボラット」(2006年アメリカ映画)は、その類だろう。ボラットとアザマートの裸の格闘場面を見ているとそれがわかる。アザマートの立ち姿であれば、実際には腹が覆いかぶさって股間そのものがまったく見えていない。しかしアザマートが横になっている場面もあるのだ。そのとき股間が映っているのだが、玉袋が見えるだけで、チンチンは存在しない。というか存在はしているのだろうが完全に脂肪の中に収納されているのだ。
完全に埋没してなくても、太って短くなるなると見えなくなることがある。それは「ピーター・グリーナウェイの枕草子」を見るとわかる。これは、たくさん全裸の男が出てくる映画で、日本版は修正しまくりだったと記憶している。それぞれの男たちがそれにあったチンチンを見せているわけだが、この映画の最後に登場する相撲取り(ムロフシワタル)だけはちょっと違う。相撲取りの体には店主にあてたメッセージが書き連ねられている。店主がしゃがみこんで相撲取りのお尻の文字を読み終えると、相撲取りが店主の方向に振り返る。店主の目の前に自慢のチンチンを見せ付けるのかと思うのだが、実は何も見えていない。大きい腹と股間は確かに見えているけど、毛のようなものに隠れて映画の中ではチンチンは判別不能だった。
この相撲取りのチンチンは映画を紹介する画像では小さいなりにもちゃんと写っている。以下のページで確認できる。
http://www.tamaleaver.net/pb/pillow.html
チンチンは男の大事な部分であることは間違いない。それが埋もれてしまうなんていうのは、男としてはちょっと情けないだろう。もちろん、チンチンは人に見せるためのものではないのだから関係ないと言ってしまえば、それまでだけどね。
男性器を取り替える
現代医学では、男性器を移植するというような手術が行われることがあるのだろうか。実際のところはよくわからないけれども、映画の中での話しは存在している。
「SEX&禅」(1991年香港映画)は時代劇コメディだ。学問を志す主人公の青年が性愛についても極めようとして旅をする。有名な医者に出会った主人公は、ぜひとも馬のような巨大なペニスを手に入れたいと懇願し、実際に馬のペニスを移植してしまうというのだ。手術は苦労したものの、なんとか馬のペニスを手に入れることに成功する。もちろん巨大なペニスを使って、次々にセックスやりまくりの生活を送っていくわけだが、結局はそれでは幸せを得ることはできないようだった。これはまあ、コメディの世界の話であって、馬のペニスは実際のところ人間につけるのは不可能だろう。
「没有小鳥的天空」(小鳥のいない空 1998年香港映画)は、現代コメディ映画で、臓器移植など話がよりイメージしやすい。
交通事故で病院に運ばれた主人公(サモハン)は、そのまま死んでしまう。脳死と判定された主人公はドナーカードを持っていたので、医者は指定された臓器を他人に提供した。ところが遺体安置室に運ばれる途中で主人公は目が覚め、自分の小弟弟(おちんちん)がなくなっていることに気がついて絶叫する。
こんな感じで映画がスタートするわけだ。ドナーカードには「器官」と記していたはずだっが、彼の友人が悪ふざけで「性」の一文字を書き加え、「性器官」を提供するという意思表示をしたことになってしまったらしいのだ。これは悪ふざけでは済まされない、男としての楽しみを生涯にわたって奪われてに等しいのだから。
もちろん、医者に対しておれのペニスを返せと怒鳴りつけたわけだが、すでにペニスの移植を求めていた別の男にあげてしまったらしい。主人公は自分のペニスを取り戻そうと必死になる。そうして移植を受けた男(ケニー・ビー)を探し出し、直接交渉をする。その男は移植したペニスを利用して夫婦生活も正常に営んでいたわけだ。まさか死んだはずのドナーが蘇生してペニスを取り戻しにくるなんて考えてないわけだから、大混乱になってしまう。1本のペニスに対して二人の男が争うことになるわけだ。
俺の大切なペニスを使ってお前が気持ちいいことをしているなんて許せない・・そんなことを議論してみてもはじまらないだろう。もちろん主人公はペニスを返してほしいと主張するわけだが、はいそうですかと返してくれるはずもない。主人公はペニスの本来の所有者は自分なんだから、自分のペニスを見る権利があるだろうと主張し、毎日会ってはペニスの安否を確かめる日々が始まる。こうして二人の男は密会をしてはパンツの中を覗き込む関係になった。これはいかにも怪しい光景で、周囲からはホモなんじゃないかと疑われても仕方がない状態だった。このあとも、ペニスをどこから手に入れるかと話が展開し、コメディといいながらも大変悩ましい映画だった。
映画の冒頭の場面の動画を以下に紹介しておく
「没有小鳥的天空」
「SEX&禅」(1991年香港映画)は時代劇コメディだ。学問を志す主人公の青年が性愛についても極めようとして旅をする。有名な医者に出会った主人公は、ぜひとも馬のような巨大なペニスを手に入れたいと懇願し、実際に馬のペニスを移植してしまうというのだ。手術は苦労したものの、なんとか馬のペニスを手に入れることに成功する。もちろん巨大なペニスを使って、次々にセックスやりまくりの生活を送っていくわけだが、結局はそれでは幸せを得ることはできないようだった。これはまあ、コメディの世界の話であって、馬のペニスは実際のところ人間につけるのは不可能だろう。
「没有小鳥的天空」(小鳥のいない空 1998年香港映画)は、現代コメディ映画で、臓器移植など話がよりイメージしやすい。
交通事故で病院に運ばれた主人公(サモハン)は、そのまま死んでしまう。脳死と判定された主人公はドナーカードを持っていたので、医者は指定された臓器を他人に提供した。ところが遺体安置室に運ばれる途中で主人公は目が覚め、自分の小弟弟(おちんちん)がなくなっていることに気がついて絶叫する。
こんな感じで映画がスタートするわけだ。ドナーカードには「器官」と記していたはずだっが、彼の友人が悪ふざけで「性」の一文字を書き加え、「性器官」を提供するという意思表示をしたことになってしまったらしいのだ。これは悪ふざけでは済まされない、男としての楽しみを生涯にわたって奪われてに等しいのだから。
もちろん、医者に対しておれのペニスを返せと怒鳴りつけたわけだが、すでにペニスの移植を求めていた別の男にあげてしまったらしい。主人公は自分のペニスを取り戻そうと必死になる。そうして移植を受けた男(ケニー・ビー)を探し出し、直接交渉をする。その男は移植したペニスを利用して夫婦生活も正常に営んでいたわけだ。まさか死んだはずのドナーが蘇生してペニスを取り戻しにくるなんて考えてないわけだから、大混乱になってしまう。1本のペニスに対して二人の男が争うことになるわけだ。
俺の大切なペニスを使ってお前が気持ちいいことをしているなんて許せない・・そんなことを議論してみてもはじまらないだろう。もちろん主人公はペニスを返してほしいと主張するわけだが、はいそうですかと返してくれるはずもない。主人公はペニスの本来の所有者は自分なんだから、自分のペニスを見る権利があるだろうと主張し、毎日会ってはペニスの安否を確かめる日々が始まる。こうして二人の男は密会をしてはパンツの中を覗き込む関係になった。これはいかにも怪しい光景で、周囲からはホモなんじゃないかと疑われても仕方がない状態だった。このあとも、ペニスをどこから手に入れるかと話が展開し、コメディといいながらも大変悩ましい映画だった。
映画の冒頭の場面の動画を以下に紹介しておく
「没有小鳥的天空」
トイレは外に(2)
おしっこはどうやって検索するかという問い合わせがあったが、たとえば「撒尿」(立ちション)というキーワードで探してみたらどうだろう。
そうすると・・・たとえば
http://www.panoramio.com/photo/22782217
これは、広東省佛山市の博物館前。こういうところで堂々とおしっこをする子供の姿。これは記念写真にちょっとした悪ふざけを加えた写真かな。誰も注意しないんだね。
http://itbbs.pconline.com.cn/market/9706943.html
車の中でおしっこをしたくなったら、ドアを開けて道路に向けて出すようだ。しかし自分の車なら停められるけど、公共の乗り物だったら停めるわけにはいかないし、どうするのだろう。
http://club.pchome.net/thread_1_15_4401488.html
http://club.pchome.net/topic_1_15_3039852.html
バスだろうが、地下鉄だろうが、自然の欲求には逆らえないし、出すしかないわけだ。周りの人が冷静に見ているのにむしろびっくりする。公共の乗り物の中はいったいどんな臭いがするのだろうかとちょっと想像してしまった。
http://epaper.nddaily.com/I/html/2009-06/03/content_808945.htm
どうせおしっこを飛ばすなら、高いところから飛ばした方が面白いのかな。子供たちの場合は、こうやっておしっこを遊びにできるけれども、大人になるとかわいいというわけにはいかないだろう。
http://www.noon12.cn/bbs/dv_rss.asp?s=xhtml&boardid=83&id=239139&page=5
タクシーの運転手が、客待ちの間に、道路で小便をする場面。これを見て思うのだけど、やはり壁などの対象物に向かってするのではなくて、道路に向かってするのだね。前に対象物がないということは、周囲からチンチンが丸見えになるわけだけど、抵抗はないのかな。油断していると、こうやって恥ずかしい姿を写真に撮られて世界に公開されてしまうよ。
夜の立小便なら暗い中だからそれほど目立たないかもしれない。日本でも酔っ払いが電柱に向かって立小便をすることもあるだろうからね。しかし次の画像をみたら、やっぱびっくりするね。
http://blog.zol.com.cn/718/article_717955.html
これはおっちゃんがまさに道路で小便をしている光景だ。一応木の前に立ってはいるけど、木に体を寄りかけているだけで、恥ずかしいところを周囲から見られないようにする意図は感じられない。小便は木から外れた方向に飛んでいるし、チンチンは通行人や車から丸見え状態だ。このおっちゃんとしては、小便をする姿を通り過ぎる人に見られたからって、別に何ともないと思っているのだろう。しかし、今の時代はこわいね。自分のチンチンがインターネットで世界中に公開されていることを知ったら、平気というわけにもいかないだろう。
そうすると・・・たとえば
http://www.panoramio.com/photo/22782217
これは、広東省佛山市の博物館前。こういうところで堂々とおしっこをする子供の姿。これは記念写真にちょっとした悪ふざけを加えた写真かな。誰も注意しないんだね。
http://itbbs.pconline.com.cn/market/9706943.html
車の中でおしっこをしたくなったら、ドアを開けて道路に向けて出すようだ。しかし自分の車なら停められるけど、公共の乗り物だったら停めるわけにはいかないし、どうするのだろう。
http://club.pchome.net/thread_1_15_4401488.html
http://club.pchome.net/topic_1_15_3039852.html
バスだろうが、地下鉄だろうが、自然の欲求には逆らえないし、出すしかないわけだ。周りの人が冷静に見ているのにむしろびっくりする。公共の乗り物の中はいったいどんな臭いがするのだろうかとちょっと想像してしまった。
http://epaper.nddaily.com/I/html/2009-06/03/content_808945.htm
どうせおしっこを飛ばすなら、高いところから飛ばした方が面白いのかな。子供たちの場合は、こうやっておしっこを遊びにできるけれども、大人になるとかわいいというわけにはいかないだろう。
http://www.noon12.cn/bbs/dv_rss.asp?s=xhtml&boardid=83&id=239139&page=5
タクシーの運転手が、客待ちの間に、道路で小便をする場面。これを見て思うのだけど、やはり壁などの対象物に向かってするのではなくて、道路に向かってするのだね。前に対象物がないということは、周囲からチンチンが丸見えになるわけだけど、抵抗はないのかな。油断していると、こうやって恥ずかしい姿を写真に撮られて世界に公開されてしまうよ。
夜の立小便なら暗い中だからそれほど目立たないかもしれない。日本でも酔っ払いが電柱に向かって立小便をすることもあるだろうからね。しかし次の画像をみたら、やっぱびっくりするね。
http://blog.zol.com.cn/718/article_717955.html
これはおっちゃんがまさに道路で小便をしている光景だ。一応木の前に立ってはいるけど、木に体を寄りかけているだけで、恥ずかしいところを周囲から見られないようにする意図は感じられない。小便は木から外れた方向に飛んでいるし、チンチンは通行人や車から丸見え状態だ。このおっちゃんとしては、小便をする姿を通り過ぎる人に見られたからって、別に何ともないと思っているのだろう。しかし、今の時代はこわいね。自分のチンチンがインターネットで世界中に公開されていることを知ったら、平気というわけにもいかないだろう。
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