珍場面ブログ
ホームページ「おちんちん映画リスト」と連携して情報の発信を行います。新ネタなどありましたら、随時記事にあげていきます。ホームページからの投稿も継続してお願いします。
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早撃ち競争
男の子が一緒に並んでするのは、連れションかな。遊んでいるときに、一人が小便すると言えば、他の子も同じタイミングでトイレ休憩をとるというのはよくあることだ。友達同士で川原などで野外連れションをする場合、見られて恥ずかしいなんて感覚はなかっただろう。
さて、小学校くらいなら連れションなんだろうが、中学、高校と年齢があがってくると、おちんちんから出すものも変わってくるのだろうか。ここではみんなで連れオナニーという場面がある映画を紹介しよう。ちなみに、僕の経験ではそういう場面に遭遇したことはなかった。
「CRAZY」(2000年・ドイツ映画・日本未公開)は、15~16歳の少年たちの話だ。映画は主人公が全寮制の学校に転校してくるところから始まる。転校してすぐにエロ雑誌を購入して、寮のベッド中でもぞもぞやっている様子だ。主人公は、新しい学校で友達ができるのだが、彼らはタバコも吸うし、ビールも飲むし、ちょっとワルのグループらしい。
ある日、グループメンバーが森に集合してゲームを行う。小屋の壁には今日のおかずが張り出される。どうもエロ雑誌の切り抜きらしい。小屋の前にはちょうどいい木の切り株があって、その上に2枚のクッキーが置かれた。少年たちは切り株の前に並んでパンツを下ろし、壁の写真をみながら、下腹の付近で必死になって手を前後させている。クッキーの上に、白いクリーム状の液体が、それぞれの方向から飛んでくる。早く飛ばした少年はほっとした顔をしているようだ。一方でまだ手を動かしている少年もいて、遅れをとった少年の顔には焦りの色が・・。ゲームが終わって最後まで残った二人には罰ゲームが行われたのだね。その後、少年二人は、口の中のものを吐き出したり、水でゆすいだりして気持ち悪そうにしている。彼らがクッキーを食べて見せる場面は映像として入っているわけではないが、クッキーは二枚あるわけで二人が食べさせられたことは明らかだ。
こういう友達同士でのゲームは、ドイツの不良少年の問題だろうと思ったら、実はアメリカの学校でもあるようだね。「GOING GREEK」 (2001年アメリカ・日本未公開)によく似た場面がでてくる。こちらは大学のクラブハウスの話。クラブハウスでは、新入生にハウスの伝統をみっちりと教え込む儀式があるのだが、実際のところはしごきというか、いじめだろう。たとえば、新入生はパンツ一枚で隊列を組んで図書館に行進し、机に上って全員でパンツを下ろし歌を歌うなんてことも。人前でポコチンを出せといわれれば、新入生としては、その通り従うしかないらしい。
クラブハウスでのゲームはこんな感じだ。裸で並んだ新入生たち、その真ん中には巨大なチョコレートクッキーが置かれている。何やら「ピチャピチャ」という音が聞こえていて、それぞれがエッチな妄想を膨らませている。一人抜け、二人抜け、最後まで残った男の前には、白いクリームでトッピングされた巨大なクッキーが・・・。この映画でも、クッキーを食べる場面はない(実は、撮影はしたものの本編ではカットにらしい)のだが、罰ゲームをした男はこのあとチョコレートを大量に吐き出してしまうよ。見ている方も吐きそうな場面だった。
どちらの映画も、ストレートな映像表現をすることは難しいようだ。ドイツ映画の方はオナニーの場面をお尻の側から映したり、胸から上を映したりという方法をとった。アメリカ映画の方は、顔の表情と音、エッチな空想場面を入れることでオナニーであることを表現した。したがってどちらもチン見せはない。白い液状のものが本物である必要はないけれども、それを食べるという直接的な映像表現も行わなかったようだ。それにしても、ドイツとアメリカで競争のルールや罰ゲームが同じというのはちょっと面白いね。このようなルールであれば、早漏君が有利だろうね。
さて、小学校くらいなら連れションなんだろうが、中学、高校と年齢があがってくると、おちんちんから出すものも変わってくるのだろうか。ここではみんなで連れオナニーという場面がある映画を紹介しよう。ちなみに、僕の経験ではそういう場面に遭遇したことはなかった。
「CRAZY」(2000年・ドイツ映画・日本未公開)は、15~16歳の少年たちの話だ。映画は主人公が全寮制の学校に転校してくるところから始まる。転校してすぐにエロ雑誌を購入して、寮のベッド中でもぞもぞやっている様子だ。主人公は、新しい学校で友達ができるのだが、彼らはタバコも吸うし、ビールも飲むし、ちょっとワルのグループらしい。
ある日、グループメンバーが森に集合してゲームを行う。小屋の壁には今日のおかずが張り出される。どうもエロ雑誌の切り抜きらしい。小屋の前にはちょうどいい木の切り株があって、その上に2枚のクッキーが置かれた。少年たちは切り株の前に並んでパンツを下ろし、壁の写真をみながら、下腹の付近で必死になって手を前後させている。クッキーの上に、白いクリーム状の液体が、それぞれの方向から飛んでくる。早く飛ばした少年はほっとした顔をしているようだ。一方でまだ手を動かしている少年もいて、遅れをとった少年の顔には焦りの色が・・。ゲームが終わって最後まで残った二人には罰ゲームが行われたのだね。その後、少年二人は、口の中のものを吐き出したり、水でゆすいだりして気持ち悪そうにしている。彼らがクッキーを食べて見せる場面は映像として入っているわけではないが、クッキーは二枚あるわけで二人が食べさせられたことは明らかだ。
こういう友達同士でのゲームは、ドイツの不良少年の問題だろうと思ったら、実はアメリカの学校でもあるようだね。「GOING GREEK」 (2001年アメリカ・日本未公開)によく似た場面がでてくる。こちらは大学のクラブハウスの話。クラブハウスでは、新入生にハウスの伝統をみっちりと教え込む儀式があるのだが、実際のところはしごきというか、いじめだろう。たとえば、新入生はパンツ一枚で隊列を組んで図書館に行進し、机に上って全員でパンツを下ろし歌を歌うなんてことも。人前でポコチンを出せといわれれば、新入生としては、その通り従うしかないらしい。
クラブハウスでのゲームはこんな感じだ。裸で並んだ新入生たち、その真ん中には巨大なチョコレートクッキーが置かれている。何やら「ピチャピチャ」という音が聞こえていて、それぞれがエッチな妄想を膨らませている。一人抜け、二人抜け、最後まで残った男の前には、白いクリームでトッピングされた巨大なクッキーが・・・。この映画でも、クッキーを食べる場面はない(実は、撮影はしたものの本編ではカットにらしい)のだが、罰ゲームをした男はこのあとチョコレートを大量に吐き出してしまうよ。見ている方も吐きそうな場面だった。
どちらの映画も、ストレートな映像表現をすることは難しいようだ。ドイツ映画の方はオナニーの場面をお尻の側から映したり、胸から上を映したりという方法をとった。アメリカ映画の方は、顔の表情と音、エッチな空想場面を入れることでオナニーであることを表現した。したがってどちらもチン見せはない。白い液状のものが本物である必要はないけれども、それを食べるという直接的な映像表現も行わなかったようだ。それにしても、ドイツとアメリカで競争のルールや罰ゲームが同じというのはちょっと面白いね。このようなルールであれば、早漏君が有利だろうね。
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衣装が全裸という映画
「テン・カヌーズ」(2006年オーストラリア)は、先住民アボリジニの生活や文化、伝承を描いた映画だ。タイトルとなったカヌーはもちろん川や湖に浮かべて移動に使うものだが、彼らは木の皮をはぎとり、それを加工してカヌーを作っている。オーストラリアで、アボリジニの昔の姿をアボリジニの言葉だけで綴った映画は今まで作られたことがなく、公開当時、大変話題になったそうだ。
映画の中では、族長の妻のうちの一人が失踪する場面がある。村で寄り集まって、何が起こったのかと想像を膨らませていた。すると他の部落の男が村の近くいたので、彼が誘拐したに違いないと勝手に思い、背中から槍を投げてしまう。その槍が見事に命中して男は死んでしまった。そのうち、死体は他の部族により発見され、槍の持ち主に仕返しをしにやってくる。しかしその復讐がちゃんとルールに従って行われる。離れたところから犯人をめがけて槍を投げるというものだ。族長に槍があたったところで復讐の儀式は終わり、他の部落の男たちは満足そうに帰っていった。本来ならば悲惨な場面なのだろうが、映画のつくり方のせいか、むしろコミカルな感じすら伝わってくる内容だった。
さて、この映画の男たちの姿は、腰にまいた細い紐が一本だけだ。当然ながらそれで前が隠れるはずはない。そういえば、昔からアフリカやアマゾンなどの裸族が映画で登場する場合、不自然な腰布を身に着けているのが定石だったよね。それは当然のこと撮影用に作られた腰布に見えるパンツに他ならない。ドキュメンタリーでない限り、裸族であっても全裸で演出することなどありえない話だ。しかしこの「テン・カヌーズ」は、そんな中途半端なアイテムを使ってごまかしたりはしない。映画の中の村の男たちは、子供から老人まで全員が素っ裸で、ぶらぶらしたものが丸見えだ。100年前のアボリジニを描くためには、チンチン丸出しで出演することが必然だったということなのだろうか。その徹底振りには恐れ入った。
チンチンにまつわる話として、映画の中で、村人が他の部落の男と森の中で遭遇する場面がある。最初は見慣れぬ男をみて緊張が走るが、その場では大きなトラブルにはならずにやり過ごす。その男が異質に思えるのは、腰のところに前垂れがあることだ。村の男は、「チンチンを隠す奴は、チンチンが小さくて見せられないのだ」と言って他部落の男を批判をしていた。男なら堂々をチンチンを出すべきだろう。そう言っているようにも聞こえて、面白かった。
映画の中では、族長の妻のうちの一人が失踪する場面がある。村で寄り集まって、何が起こったのかと想像を膨らませていた。すると他の部落の男が村の近くいたので、彼が誘拐したに違いないと勝手に思い、背中から槍を投げてしまう。その槍が見事に命中して男は死んでしまった。そのうち、死体は他の部族により発見され、槍の持ち主に仕返しをしにやってくる。しかしその復讐がちゃんとルールに従って行われる。離れたところから犯人をめがけて槍を投げるというものだ。族長に槍があたったところで復讐の儀式は終わり、他の部落の男たちは満足そうに帰っていった。本来ならば悲惨な場面なのだろうが、映画のつくり方のせいか、むしろコミカルな感じすら伝わってくる内容だった。
さて、この映画の男たちの姿は、腰にまいた細い紐が一本だけだ。当然ながらそれで前が隠れるはずはない。そういえば、昔からアフリカやアマゾンなどの裸族が映画で登場する場合、不自然な腰布を身に着けているのが定石だったよね。それは当然のこと撮影用に作られた腰布に見えるパンツに他ならない。ドキュメンタリーでない限り、裸族であっても全裸で演出することなどありえない話だ。しかしこの「テン・カヌーズ」は、そんな中途半端なアイテムを使ってごまかしたりはしない。映画の中の村の男たちは、子供から老人まで全員が素っ裸で、ぶらぶらしたものが丸見えだ。100年前のアボリジニを描くためには、チンチン丸出しで出演することが必然だったということなのだろうか。その徹底振りには恐れ入った。
チンチンにまつわる話として、映画の中で、村人が他の部落の男と森の中で遭遇する場面がある。最初は見慣れぬ男をみて緊張が走るが、その場では大きなトラブルにはならずにやり過ごす。その男が異質に思えるのは、腰のところに前垂れがあることだ。村の男は、「チンチンを隠す奴は、チンチンが小さくて見せられないのだ」と言って他部落の男を批判をしていた。男なら堂々をチンチンを出すべきだろう。そう言っているようにも聞こえて、面白かった。
子役時代の一場面
歌舞伎役者で俳優の中村勘太郎の話。先日、主演映画『禅 ZEN』のイベントに出席した際に、交際している事実を明らかにした。お相手は前田愛。前田愛は「あっぱれさんま大先生」でテレビに出演し子役時代から活躍している。
そういう勘太郎も、5歳くらいから舞台に立ち、芸能活動をしていた。今回の交際発覚を扱うテレビ報道の中で、勘太郎が子役として出演しているドラマが紹介されていた。それがどうも見覚えのあるドラマだった。
そのドラマはTBSの「時間ですよ ふたたび」。80年代後半の放送で、トンネルズが出演していた。このシリーズはわずか8回で完結。勘太郎が出演したのはそのうちの第6回。明(木梨憲武)の高校時代の先輩だった女性が梅の湯にやってくる。そして離婚の手続きがあるからと子供を梅の湯に預けて出かけてしまうというもの。このとき連れてきた5歳の男の子が勘太郎だった。母親は女優志望だったという設定で、母親が口癖にしていたセリフを勘太郎が暗唱してみせるという場面も設定されていた。さすが役者だね。しかし、全体に表情も少なく、演技としてはちょっと寂しい感じだったかな。まあ5歳の少年に、そこまで要求するのは無理があるかもしれないね。
さて、子役というのは、いろんなことをさせられるもので、まず夜中にトイレに起きる場面がある。最初は仏壇に向かっておしっこをかけようとしたので、幽霊の主人が彼をかかえてトイレに飛んでいくというものだった。おしっこの方は格好だけ。次の場面は、夕食の場面だ。勘太郎が生意気だと頭にきていた勝(石橋貴明)が、おかわりをしている最中に勘太郎を廊下に抱え出し、パンツを脱がせてお尻をぎゅっとつねっていた。勘太郎はパンツを脱がされたまま、どうしてよいのか戸惑っているうち、おちんちんが見えている。
ひょっとしたら、これは石橋のアドリブで脱がしたのかもしれないけど・・事実はどうだろう。どちらにしても、男の子がパンツ脱いであたりまえの時代だから、そのまんま放送されている。
そういう勘太郎も、5歳くらいから舞台に立ち、芸能活動をしていた。今回の交際発覚を扱うテレビ報道の中で、勘太郎が子役として出演しているドラマが紹介されていた。それがどうも見覚えのあるドラマだった。
そのドラマはTBSの「時間ですよ ふたたび」。80年代後半の放送で、トンネルズが出演していた。このシリーズはわずか8回で完結。勘太郎が出演したのはそのうちの第6回。明(木梨憲武)の高校時代の先輩だった女性が梅の湯にやってくる。そして離婚の手続きがあるからと子供を梅の湯に預けて出かけてしまうというもの。このとき連れてきた5歳の男の子が勘太郎だった。母親は女優志望だったという設定で、母親が口癖にしていたセリフを勘太郎が暗唱してみせるという場面も設定されていた。さすが役者だね。しかし、全体に表情も少なく、演技としてはちょっと寂しい感じだったかな。まあ5歳の少年に、そこまで要求するのは無理があるかもしれないね。
さて、子役というのは、いろんなことをさせられるもので、まず夜中にトイレに起きる場面がある。最初は仏壇に向かっておしっこをかけようとしたので、幽霊の主人が彼をかかえてトイレに飛んでいくというものだった。おしっこの方は格好だけ。次の場面は、夕食の場面だ。勘太郎が生意気だと頭にきていた勝(石橋貴明)が、おかわりをしている最中に勘太郎を廊下に抱え出し、パンツを脱がせてお尻をぎゅっとつねっていた。勘太郎はパンツを脱がされたまま、どうしてよいのか戸惑っているうち、おちんちんが見えている。
ひょっとしたら、これは石橋のアドリブで脱がしたのかもしれないけど・・事実はどうだろう。どちらにしても、男の子がパンツ脱いであたりまえの時代だから、そのまんま放送されている。
裸の表現の是非について
今までオペラの表現について、いくつか事例をあげてきた。実際にオペラにおける全裸での表現については、すべての人が賛同しているわけではないだろう。中には非常に反発をしている人もいると思う。しかし賛否両論ある中でも、演出家は自分の主張として全裸の表現が必要と考えれば、それを実行に移していく。それは、やはり芸術としての立場があるからなのだろう。
もしロックバンドが出てきて、いきなりパンツを脱いで歌い始めたとしたらどうだろう。単なる露出狂としか扱われないかもしれないよね。でもその歌のメッセージやダンスの内容や、その他何かの芸術性を意図したものであれが、裸での演出が絶対にだめということはないだろう。単純に裸そのものが駄目という考え方は極端で、無理があると思う。裸が何か悪いこととか、間違った問題ということはないはずだからだ。裸を見ることも悪いことではないはずだし、芸術の中で裸の表現があること自体も決して悪とは思えない。テレビのような公共の電波に乗せてよいかどうかは別として、芸術における表現の自由は守ってほしいね。
逆にもし芸術の世界で、裸の表現を否定するとちょっと大変なことになりそうだ。システィーナ礼拝堂の天井画はまだ木の実を食べる前のアダムであっても、イチジク以外の何かの葉で股間を修正しなくてはならなくなるだろう。ダビデ像はモロ出しで立っているのを避けるために、ふんどしが着用されるかもしれない。そんな高度な美術作品ばかりではない、町の体育館のブロンズ像もパンツやブラジャー着用になるのかな。どうしても裸を見せちゃいけないという主張が通るならば、そうせざるを得なくなると思う。
子供における裸の芸術表現は大人以上に厳しくなるのではないか。たとえば公園の小便小僧はオムツ着用で、小便の放水も中止されることになるのかな。こんな考え方ができるかもしれない。公園の池に小便小娘(※)なんて見たことないし、そんなものを公園に設置しようとしても許可はされないだろう。ならば小便小僧だって公の場に置くことは許されないのではないかとね。まさか、小便小僧が児童ポルノにあたるからけしからんなんて考える人は世の中にいないと思うけどな。(※コメントにも書きましたが、実は小便小娘の像は実在するらしいです)
確かに、裸の表現をした場合に、完全に性的な描写やイメージをそこから排除することは難しいのもわかる。だからといって、すべて否定されるのは違うと思う。しっかりとした判定基準もないまま児童ポルノ禁止だけが一人歩きした場合、こんな極端なところまで行き着く可能性も否定できないと思うね。
もしロックバンドが出てきて、いきなりパンツを脱いで歌い始めたとしたらどうだろう。単なる露出狂としか扱われないかもしれないよね。でもその歌のメッセージやダンスの内容や、その他何かの芸術性を意図したものであれが、裸での演出が絶対にだめということはないだろう。単純に裸そのものが駄目という考え方は極端で、無理があると思う。裸が何か悪いこととか、間違った問題ということはないはずだからだ。裸を見ることも悪いことではないはずだし、芸術の中で裸の表現があること自体も決して悪とは思えない。テレビのような公共の電波に乗せてよいかどうかは別として、芸術における表現の自由は守ってほしいね。
逆にもし芸術の世界で、裸の表現を否定するとちょっと大変なことになりそうだ。システィーナ礼拝堂の天井画はまだ木の実を食べる前のアダムであっても、イチジク以外の何かの葉で股間を修正しなくてはならなくなるだろう。ダビデ像はモロ出しで立っているのを避けるために、ふんどしが着用されるかもしれない。そんな高度な美術作品ばかりではない、町の体育館のブロンズ像もパンツやブラジャー着用になるのかな。どうしても裸を見せちゃいけないという主張が通るならば、そうせざるを得なくなると思う。
子供における裸の芸術表現は大人以上に厳しくなるのではないか。たとえば公園の小便小僧はオムツ着用で、小便の放水も中止されることになるのかな。こんな考え方ができるかもしれない。公園の池に小便小娘(※)なんて見たことないし、そんなものを公園に設置しようとしても許可はされないだろう。ならば小便小僧だって公の場に置くことは許されないのではないかとね。まさか、小便小僧が児童ポルノにあたるからけしからんなんて考える人は世の中にいないと思うけどな。(※コメントにも書きましたが、実は小便小娘の像は実在するらしいです)
確かに、裸の表現をした場合に、完全に性的な描写やイメージをそこから排除することは難しいのもわかる。だからといって、すべて否定されるのは違うと思う。しっかりとした判定基準もないまま児童ポルノ禁止だけが一人歩きした場合、こんな極端なところまで行き着く可能性も否定できないと思うね。
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