珍場面ブログ
ホームページ「おちんちん映画リスト」と連携して情報の発信を行います。新ネタなどありましたら、随時記事にあげていきます。ホームページからの投稿も継続してお願いします。
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水と火と裸の話
今回、南米の寒冷地でモンゴロイドの遺伝子を持つ人々が、裸で生活していたという事実を知り、遠く海の向こうに住んでいた人と、アジアの人の共通点もいろいろと感じることができた。彼らが裸で暮らすことの意味を考えさせられた。
南米のヤーガン族が裸で暮らすことの意味は、濡れることから体を守ることだ。彼らは冷たい海にカヌーをだして漁をし、また海中の貝を採って生活の糧を得た。そのため冷たい海の水で濡れるのが日常であるし、天気が悪くなれば冷たい雨や雪で体が濡れることも避けられなかった。濡れた衣類は体の熱を急速に奪いさり、体力の消耗と命の危険をもたらすものだ。また彼らが体を温めるためにたき火にあたるときも、濡れた服があるよりも裸の方が有利だった。だから彼らは生きるために裸であることを選んだ。
これとまったく同じ理屈が日本でもあった。千葉県外房の海岸は延々と浜が続いており、砂浜からイワシ漁船を出すためには、たくさんの漁夫が水に入って作業をする必要があった。また貝採りも一部の種類は深いところに潜って採っていた。浜にあがって火にあたる漁夫たちを見れば、みんなチンチン丸出しだった。真冬でも冷たい海に入って仕事をする彼らの防寒対策は、裸で海に入り、裸で冷えた体を火で温めることだった。
中国の少数民族、彝族阿细人の火祭りは、裸祭りとして何度も紹介してきた行事だ。これも水と火に関係する話がある。先祖がまだ裸で暮らしていたころ、洪水に襲われたのだ。その中、一人の男が火を起こし、それから暖をとって、彼らは危機を乗り越えることができた。それ以来、火を使って身体を温めたり、火で調理をする文化がはじまったという。祭りは、この火をもたらしたご先祖様を神様としてたたえ、その伝承と技術を後世につなげることが目的だ。祭りの日は、先祖と同じように裸になって火を起こし、火の周りで踊り、火を飛び越えて、歓喜を表現する。すでに、生活様式は変わっているが、裸で火にあたって体を温めた過去の姿を祭りの伝統として残してきたのは、貴重だと考える。
南米のヤーガン族が裸で暮らすことの意味は、濡れることから体を守ることだ。彼らは冷たい海にカヌーをだして漁をし、また海中の貝を採って生活の糧を得た。そのため冷たい海の水で濡れるのが日常であるし、天気が悪くなれば冷たい雨や雪で体が濡れることも避けられなかった。濡れた衣類は体の熱を急速に奪いさり、体力の消耗と命の危険をもたらすものだ。また彼らが体を温めるためにたき火にあたるときも、濡れた服があるよりも裸の方が有利だった。だから彼らは生きるために裸であることを選んだ。
これとまったく同じ理屈が日本でもあった。千葉県外房の海岸は延々と浜が続いており、砂浜からイワシ漁船を出すためには、たくさんの漁夫が水に入って作業をする必要があった。また貝採りも一部の種類は深いところに潜って採っていた。浜にあがって火にあたる漁夫たちを見れば、みんなチンチン丸出しだった。真冬でも冷たい海に入って仕事をする彼らの防寒対策は、裸で海に入り、裸で冷えた体を火で温めることだった。
中国の少数民族、彝族阿细人の火祭りは、裸祭りとして何度も紹介してきた行事だ。これも水と火に関係する話がある。先祖がまだ裸で暮らしていたころ、洪水に襲われたのだ。その中、一人の男が火を起こし、それから暖をとって、彼らは危機を乗り越えることができた。それ以来、火を使って身体を温めたり、火で調理をする文化がはじまったという。祭りは、この火をもたらしたご先祖様を神様としてたたえ、その伝承と技術を後世につなげることが目的だ。祭りの日は、先祖と同じように裸になって火を起こし、火の周りで踊り、火を飛び越えて、歓喜を表現する。すでに、生活様式は変わっているが、裸で火にあたって体を温めた過去の姿を祭りの伝統として残してきたのは、貴重だと考える。
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包茎手術と初体験の話
僕が性器や性の情報を、もっと明らかにすべきという考えに
いたった、一つの材料があった。
ある男が包茎手術を受けて、女性と初体験をするまでの
ドキュメンタリーがある。ある男とは、久本大痴と言って、
家田荘子の著作「アブノーマルラバーズ」で変態として
紹介されている人だ。
それまで大痴は、デブ、坊主、前歯抜けありの滑稽な
ルックス、男性自身は短小で真性包茎という最悪の条件。
そして彼は正真正銘の童貞で、それまでのせんずり人生で
勉強机の下はシミだらけだったというほど。
その大痴が一皮剥けて男になるという大勝負に出たのは
30代の後半に入ったとき。企画は、一人の女優が大痴の
妻役となって包茎手術に付き添い、童貞喪失のミッションを
遂行する。
手術の前に、一応試してみたけれども、そもそも大痴の
モノが出てこないので、夫婦の行為はほぼ不可能だった。
ドキュメンタリーは手術の様子も明らかにしていた。
そして手術の傷が癒えるまで時間がかかったものの、
いよいよ夫婦の営み。カメラは布団の上の二人を見守った。
結構苦労をしており、途中で疲れて休憩をとったりもした。
どういう位置なら成功するか、二人で話しながら、最後に
決めたのは、大痴の腰の下に枕を入れて腰を浮かせ、妻役
が上でそれにあわせることだった。
大痴は、一人でせんずりした方が楽だと思ったに違いない。
しかし、本当のところは、大痴以上に妻役は苦労していた。
こういう、まったく格好悪い映像なんだけど、見ている方も
「もう少しだ、がんばれ」と言いたくなるような状況だった。
そして、うまく行き出すと、大痴は目を丸々として、驚きとも
感動ともとれるような表情に変わった。
そして、大痴は突然、「ああ、出ちゃいました」と言った。
当初の段取りでは、外で出すはずだろうが、そんな余裕も
なかったのだろう。
飾りもせず、変な演出もせず、これが本当の初体験だよね
と思えた。最初から格好良くできる人なんていない、人から
教えてもらったり、二人で工夫したりもするだろう。
性の問題をタブー化すると、真性包茎など、いつまでもケア
されないで残ってしまう人がでてくる。日本に割礼の習慣はない。
また夫婦生活についても、学ばないで本番になる人もいる。
今回は女性がリードしたから成功したけれども、双方未経験
だと、正直言って成立は難しいのではないかとさえ思う。
性の情報として、僕らが接することができるのはAVビデオだ。
そのビデオの世界が真実だと思ってしまうことも少なくない。
こういうドキュメンタリーを見ると、とても考えさせられる。
やはり、性や性器のことはタブー化しないでほしい。
普通の話、日常の話として、隠さないで明らかにしてほしいなと
思うようになった。
いたった、一つの材料があった。
ある男が包茎手術を受けて、女性と初体験をするまでの
ドキュメンタリーがある。ある男とは、久本大痴と言って、
家田荘子の著作「アブノーマルラバーズ」で変態として
紹介されている人だ。
それまで大痴は、デブ、坊主、前歯抜けありの滑稽な
ルックス、男性自身は短小で真性包茎という最悪の条件。
そして彼は正真正銘の童貞で、それまでのせんずり人生で
勉強机の下はシミだらけだったというほど。
その大痴が一皮剥けて男になるという大勝負に出たのは
30代の後半に入ったとき。企画は、一人の女優が大痴の
妻役となって包茎手術に付き添い、童貞喪失のミッションを
遂行する。
手術の前に、一応試してみたけれども、そもそも大痴の
モノが出てこないので、夫婦の行為はほぼ不可能だった。
ドキュメンタリーは手術の様子も明らかにしていた。
そして手術の傷が癒えるまで時間がかかったものの、
いよいよ夫婦の営み。カメラは布団の上の二人を見守った。
結構苦労をしており、途中で疲れて休憩をとったりもした。
どういう位置なら成功するか、二人で話しながら、最後に
決めたのは、大痴の腰の下に枕を入れて腰を浮かせ、妻役
が上でそれにあわせることだった。
大痴は、一人でせんずりした方が楽だと思ったに違いない。
しかし、本当のところは、大痴以上に妻役は苦労していた。
こういう、まったく格好悪い映像なんだけど、見ている方も
「もう少しだ、がんばれ」と言いたくなるような状況だった。
そして、うまく行き出すと、大痴は目を丸々として、驚きとも
感動ともとれるような表情に変わった。
そして、大痴は突然、「ああ、出ちゃいました」と言った。
当初の段取りでは、外で出すはずだろうが、そんな余裕も
なかったのだろう。
飾りもせず、変な演出もせず、これが本当の初体験だよね
と思えた。最初から格好良くできる人なんていない、人から
教えてもらったり、二人で工夫したりもするだろう。
性の問題をタブー化すると、真性包茎など、いつまでもケア
されないで残ってしまう人がでてくる。日本に割礼の習慣はない。
また夫婦生活についても、学ばないで本番になる人もいる。
今回は女性がリードしたから成功したけれども、双方未経験
だと、正直言って成立は難しいのではないかとさえ思う。
性の情報として、僕らが接することができるのはAVビデオだ。
そのビデオの世界が真実だと思ってしまうことも少なくない。
こういうドキュメンタリーを見ると、とても考えさせられる。
やはり、性や性器のことはタブー化しないでほしい。
普通の話、日常の話として、隠さないで明らかにしてほしいなと
思うようになった。
旧約聖書にみる皮とおちんちんの物語
ユダヤ人の社会では、子供のおちんちんの皮を切るのが普通だ。
割礼自体はイスラムの国々やアフリカなどでも広く行われているが、
それらの多くは大人に仲間入りする通過儀礼の意味合いが強いよね。
それに対し、ユダヤ人の割礼は、生後間もなく実施するものなので、
成人式とは言い難い。これは神様との約束の儀式だ。
創世記によると、割礼の起源は、アブラハムの時代であった。
神はアブラハムに対し男子は生後8日目に割礼をするよう命じている。
割礼は神様との契約であり、割礼を受けた子孫が神から選ばれた民だ。
皮がないことが、その選民の目印であり。それが今のユダヤ人につながる。
アブラハムの子孫は、ものごころついたときには皮がない生活だ。
逆に、それより以前は、例えばアダムは皮が被っていたし、
ノアも白髪のおじいさんになるまで皮が被っていたということになる。
旧約聖書で陽の皮とか前の皮と書いてあるのは、男子の包皮のことだ。
創世記34章に、ヤコブの娘のデナが異部族に恥辱される事件がある。
ヤコブはアブラハムの孫でのちにイスラエルと名乗る人だ。
異部族はデナを嫁にとりたいと真剣に求婚してきたわけだが、
デナの兄は、割礼してない部族に娘を嫁がせることはできないと伝え、
婚姻の条件として異部族の男子全員に割礼をさせたという。
その3日後、異部族の男子全員が痛みに苦しんで戦えないときに
デナの兄弟は異部族の男子を皆殺しにし、女も財産もすべて奪ったという。
皮にまつわる話は、ダビデが王の娘と結婚するときにもある。
ダビデは、王より、結納金の代わりに男子の包皮を要求された。
ユダヤ人は皮をもっていないので、異部族の人から取ってくるしかない。
ダビデは異部族を襲い、殺して、包皮を200人分持って帰ったという。
王はダビデが異部族の反撃にあって殺されることを期待していたが、
ダビデは王の期待に反して、みごとミッションを完遂してしまった。
もう一つ、皮にまつわるお話を出エジプト記から引用しよう。
ユダヤ人は当時エジプトの国で長く奴隷として暮らしていた。
そこで、奴隷からユダヤ人を救い出す役割をしたのがモーゼだ。
長く奴隷をしながらユダヤ人は自分たちの伝統文化を守っていた。
モーゼとともにエジプトを出発したユダヤ人の男子は当然割礼済。
しかし、荒野をさまよう生活で、しだいに伝統文化が廃れていく。
荒野で生まれた二世たちは、生まれても割礼をしなくなっていた。
約束を守らない彼らの状態に、見かねた神がお怒りになり
モーゼを殺そうとしたのだ。
そのときモーゼの妻が、あわててモーゼの子供たちにに割礼し
包皮をモーゼの足にあてて、神に報告した。
それで神はモーゼを殺さなかったという。
これはいったん神との約束を忘れかけてしまったユダヤ人が
再び神との約束を守ることで、復活していったことを意味している。
創世記にもどって、もうひとつ物語を紹介しよう。
それは、オナニーという言葉の起源になったオナンの話だ。
この人は「精を地に漏らす」行為を行って死刑になった人だ。
しかし、オナンがマスターベーションに耽っていたとは書かれてない。
そもそも旧約聖書にマスターベーションの話題がない。
オナンのお父さんは、先ほど登場したデナの兄でユダという。
ユダはヤコブ(イスラエル)の4男で、いわゆるユダヤ人の祖だ。
ユダには3人の子がいて、長男にタマルという嫁を迎えた。
しかし長男が子供を作る前に、早死にしてしまった。
ユダは長男の子を作るために、次男のオナンに代理を命じた。
さて、オナンの方はどんな気持ちになる?
タマルがすごい美人で、あこがれの兄嫁だったらラッキーと思うかな。
でもタマルに子供ができたら、自分の子じゃなくて兄の子になるのだ。
タマルがほしいのは血族の精子だけ。
オナンそのものはいらないけど、玉とおちんちんだけ貸してくれればいい。
子供も財産も長男の家系が引き継ぎ、オナンのものにはならない。
ということで、オナンはやる気がまったくでないまま本番に入り。
放出するときに、わざと失敗して、外で漏らしたという。
子作り命令を拒否したことが、オナンが神様から死刑とされた理由。
だから、マスターベーションの話は、まったく関係なし。
事後談は、三男は子供だったので、大人になるまでタマルは待った。
しかし、ユダは三男は大人になっても、長男の代理を命じなかった。
それは、オナンのように死んでほしくなかったから。
そしてタマルはどうやって子供を作ったかというと、
遊女に化けて、義父のユダを誘惑し、だまして精子をもらった・・・
血族を残すために、命をかけるということがこの物語の趣旨だ。
今の価値感でどうこういうのは、やめた方がいいね。
タマルはこうしてユダの子孫を残したのだ。これがユダヤ人の先祖。
話を割礼に戻すけど、皮をとったおちんちんが神との契約のしるしだ。
老いも若きも赤ちゃんまでも、そこに選ばれた民族の目印がある。
これが神の部族と異部族とを明確に区別する目印だったのに、
ナチスの時代になると、悪魔はその目印を逆に利用したよね。
学校にナチスの兵がはいってきて、パンツを脱がして隠れユダヤを
見つけて収容所送りにすることも、簡単にできたわけだ。
パンツを脱がされる瞬間、屈辱と死の恐怖の両方を体験しただろう。
皮の問題って、ばかにできないよね。
割礼自体はイスラムの国々やアフリカなどでも広く行われているが、
それらの多くは大人に仲間入りする通過儀礼の意味合いが強いよね。
それに対し、ユダヤ人の割礼は、生後間もなく実施するものなので、
成人式とは言い難い。これは神様との約束の儀式だ。
創世記によると、割礼の起源は、アブラハムの時代であった。
神はアブラハムに対し男子は生後8日目に割礼をするよう命じている。
割礼は神様との契約であり、割礼を受けた子孫が神から選ばれた民だ。
皮がないことが、その選民の目印であり。それが今のユダヤ人につながる。
アブラハムの子孫は、ものごころついたときには皮がない生活だ。
逆に、それより以前は、例えばアダムは皮が被っていたし、
ノアも白髪のおじいさんになるまで皮が被っていたということになる。
旧約聖書で陽の皮とか前の皮と書いてあるのは、男子の包皮のことだ。
創世記34章に、ヤコブの娘のデナが異部族に恥辱される事件がある。
ヤコブはアブラハムの孫でのちにイスラエルと名乗る人だ。
異部族はデナを嫁にとりたいと真剣に求婚してきたわけだが、
デナの兄は、割礼してない部族に娘を嫁がせることはできないと伝え、
婚姻の条件として異部族の男子全員に割礼をさせたという。
その3日後、異部族の男子全員が痛みに苦しんで戦えないときに
デナの兄弟は異部族の男子を皆殺しにし、女も財産もすべて奪ったという。
皮にまつわる話は、ダビデが王の娘と結婚するときにもある。
ダビデは、王より、結納金の代わりに男子の包皮を要求された。
ユダヤ人は皮をもっていないので、異部族の人から取ってくるしかない。
ダビデは異部族を襲い、殺して、包皮を200人分持って帰ったという。
王はダビデが異部族の反撃にあって殺されることを期待していたが、
ダビデは王の期待に反して、みごとミッションを完遂してしまった。
もう一つ、皮にまつわるお話を出エジプト記から引用しよう。
ユダヤ人は当時エジプトの国で長く奴隷として暮らしていた。
そこで、奴隷からユダヤ人を救い出す役割をしたのがモーゼだ。
長く奴隷をしながらユダヤ人は自分たちの伝統文化を守っていた。
モーゼとともにエジプトを出発したユダヤ人の男子は当然割礼済。
しかし、荒野をさまよう生活で、しだいに伝統文化が廃れていく。
荒野で生まれた二世たちは、生まれても割礼をしなくなっていた。
約束を守らない彼らの状態に、見かねた神がお怒りになり
モーゼを殺そうとしたのだ。
そのときモーゼの妻が、あわててモーゼの子供たちにに割礼し
包皮をモーゼの足にあてて、神に報告した。
それで神はモーゼを殺さなかったという。
これはいったん神との約束を忘れかけてしまったユダヤ人が
再び神との約束を守ることで、復活していったことを意味している。
創世記にもどって、もうひとつ物語を紹介しよう。
それは、オナニーという言葉の起源になったオナンの話だ。
この人は「精を地に漏らす」行為を行って死刑になった人だ。
しかし、オナンがマスターベーションに耽っていたとは書かれてない。
そもそも旧約聖書にマスターベーションの話題がない。
オナンのお父さんは、先ほど登場したデナの兄でユダという。
ユダはヤコブ(イスラエル)の4男で、いわゆるユダヤ人の祖だ。
ユダには3人の子がいて、長男にタマルという嫁を迎えた。
しかし長男が子供を作る前に、早死にしてしまった。
ユダは長男の子を作るために、次男のオナンに代理を命じた。
さて、オナンの方はどんな気持ちになる?
タマルがすごい美人で、あこがれの兄嫁だったらラッキーと思うかな。
でもタマルに子供ができたら、自分の子じゃなくて兄の子になるのだ。
タマルがほしいのは血族の精子だけ。
オナンそのものはいらないけど、玉とおちんちんだけ貸してくれればいい。
子供も財産も長男の家系が引き継ぎ、オナンのものにはならない。
ということで、オナンはやる気がまったくでないまま本番に入り。
放出するときに、わざと失敗して、外で漏らしたという。
子作り命令を拒否したことが、オナンが神様から死刑とされた理由。
だから、マスターベーションの話は、まったく関係なし。
事後談は、三男は子供だったので、大人になるまでタマルは待った。
しかし、ユダは三男は大人になっても、長男の代理を命じなかった。
それは、オナンのように死んでほしくなかったから。
そしてタマルはどうやって子供を作ったかというと、
遊女に化けて、義父のユダを誘惑し、だまして精子をもらった・・・
血族を残すために、命をかけるということがこの物語の趣旨だ。
今の価値感でどうこういうのは、やめた方がいいね。
タマルはこうしてユダの子孫を残したのだ。これがユダヤ人の先祖。
話を割礼に戻すけど、皮をとったおちんちんが神との契約のしるしだ。
老いも若きも赤ちゃんまでも、そこに選ばれた民族の目印がある。
これが神の部族と異部族とを明確に区別する目印だったのに、
ナチスの時代になると、悪魔はその目印を逆に利用したよね。
学校にナチスの兵がはいってきて、パンツを脱がして隠れユダヤを
見つけて収容所送りにすることも、簡単にできたわけだ。
パンツを脱がされる瞬間、屈辱と死の恐怖の両方を体験しただろう。
皮の問題って、ばかにできないよね。
包茎について
包茎って日本だとちょっと恥ずかしいイメージがあるよね。
気になって温泉とかに行けなかったりとかする人もいるし。
今回は長文になるけど、包茎についての僕の意見を書こうと思う。
もしインドネシアに日本と同じような銭湯があれば、みんな皮なしだろう。
包茎が恥ずかしいなと思っている人は、これがあるべき姿だと思うのかな。
では、ヨーロッパに銭湯があったらどんな光景になるか、これは明らかだ。
北欧のサウナでは、右みても左みても、子供もおじいさんも皮つきが多い。
北欧のお風呂
もちろん、ヨーロッパでも皮がむけている人がいるけれども
そういう人は、おそらく手術(割礼)をしたんだなと思われるだろう。
では日本のお風呂屋さんではどうだろうね。
きちんと計数をしたわけじゃないけれども、スーパー銭湯で見ると
すっぽりかぶっている人と完全露出の人が同程度で、他に半むけが少し。
この比率は場所によっては、大きく変動することもある。
たとえば昔行った東京のある銭湯は、皮つきはほぼゼロだったし、
また横浜のある銭湯では、逆にほぼ全員が皮つきだったりした。
それでも、全体的にみると半数近くはズルムケということだ。
※少し補足すると、東京の某銭湯は大学生が多い場所だし、
横浜の某銭湯は外国人が多い場所だった。
割礼をする国では、みんなむけてて当然だし
一方で、割礼しない国では、みんな皮があって当然のはずだ。
割礼しない日本では、横浜の銭湯のように、みな皮があるべきなのに
半数近くが皮がむけているのは奇妙なことなのだ・・・どうしてだろう。
一つは、やはり美容整形を受ける人が相当数いるということだろう。
そして、皮を反転させた状態でそのままにしている人もいるよね。
中には、お風呂に入るときだけ皮を反転させる人もいるようだ。
この「見栄むき」は、いったん反転させて安定する人はいいけれども、
皮が戻る人は、お風呂で何度も皮を反転しなおすので、ちょっと忙しい。
それで、戻らないよういっそのこと手術しちゃおうかなと思う人がいるのだろう。
恥ずかしさとかいろいろ言うけど、すべてはチンコを見せるのが目的だ。
自分が思う理想のチンコじゃないと人には見せたくないという見栄がある。
むけてないと子供みたいだとか、不衛生だとか、はたまた
彼女にきらわれるなどの発想をしているのだろうけど、
その理想のチンコのイメージは、どうやってつくりあげたのか。
そう、過剰な宣伝や情報がしっかりと頭にインプットされているはず。
包茎は「Phimosis」と英訳されるが、それは口が狭くて反転できない
すなわち真性包茎のことだ。
包茎を見たまんま、皮がついているという意味で使うのであれば
uncircumcised(未割礼)もしくはuncut(切ってない)の方が意味が近いね。
皮の状態を大きく分類すると、
①circumcised(割礼済) と ②uncircumcised(未割礼)
そして②未割礼の人はさらに以下に分けられる
③phimosis(真性包茎・反転できない) と ④正常(反転できる)
世界的に包茎は、③の反転できない真性包茎のことだと思うが、
日本の定義だと、包茎は②すなわち③と④の全部を含んでいるように思われる。
この定義なら、日本男子は例外なく100%全員が包茎が基本。
成長していくと、亀頭と包皮が分離され、包皮が反転できるようになる。
ここで包皮にトラブルがあれば、③となり、手術などの処置が必要だ。
順調に成長して反転できた④は、本来は「正常」と言うべきところなのに、
日本ではこの④に対し、仮性包茎という紛らわしい言葉を使う。
正常な大人の男子にあたかも包茎っぽい印象を与え、誤解させているのだ。
だから一部が美容整形を受けて、①の割礼済に進んでいく。
日本だと包茎という言葉に、恥ずかしさやバカにした感じが含まれる。
もうそろそろ仮性包茎なんて紛らわしい言葉をやめることを提案するね。
もちろん、黒光りのするズルムケが格好いいと思うのは自由だから、
それぞれの判断で美容整形に行くのもよいだろう。
見られて恥ずかしいはいいとして、僕が心配なのは③の反転できない人。
割礼をする国では③の問題は容易にクリアできるけれども
割礼しない国では、ケアしたり、ちゃんと教育や指導をすることが必要だ。
以前紹介した性教育ビデオは、主人公が皮を反転させ亀頭の状態を
確認したり、お風呂で亀頭を露出させて洗うことを実演していた。
他にも、真性包茎で皮がむけない子、割礼を受けた子も映像で紹介して
いたので、内容としてはよくわかったと思う。
見せる性教育
SEXUELE VOORLICHTING
中国の性教育のビデオも結構ふみこんだ内容を提示していたよね。
包茎の説明では、やはり皮がむけない「包茎」の事例を実写で紹介していた。
皮を反転する人も、亀頭に恥垢がべったりついているのも見せているし、
お風呂にはいったら、皮をむいてきれいに洗うのも実写で見せている。
見せる性教育(3)
男孩、女孩青春期教育系列专题片-生理篇4
中国では、検診時にも皮がむけるか確認するので、よいことだね。
それに比べ、日本では割礼の習慣はないし、性器の話題も出しにくい。
皮が反転できるかチェックされることも、事実上ないだろう。
こうして反転できないまま大人になる人が多数存在していると思われる。
親がしっかりケアするか、あるいは性教育をしっかりやるしかないだろう。
海外のように具体的で、はっきり伝えるビデオがあればいいだろうね。
気になって温泉とかに行けなかったりとかする人もいるし。
今回は長文になるけど、包茎についての僕の意見を書こうと思う。
もしインドネシアに日本と同じような銭湯があれば、みんな皮なしだろう。
包茎が恥ずかしいなと思っている人は、これがあるべき姿だと思うのかな。
では、ヨーロッパに銭湯があったらどんな光景になるか、これは明らかだ。
北欧のサウナでは、右みても左みても、子供もおじいさんも皮つきが多い。
北欧のお風呂
もちろん、ヨーロッパでも皮がむけている人がいるけれども
そういう人は、おそらく手術(割礼)をしたんだなと思われるだろう。
では日本のお風呂屋さんではどうだろうね。
きちんと計数をしたわけじゃないけれども、スーパー銭湯で見ると
すっぽりかぶっている人と完全露出の人が同程度で、他に半むけが少し。
この比率は場所によっては、大きく変動することもある。
たとえば昔行った東京のある銭湯は、皮つきはほぼゼロだったし、
また横浜のある銭湯では、逆にほぼ全員が皮つきだったりした。
それでも、全体的にみると半数近くはズルムケということだ。
※少し補足すると、東京の某銭湯は大学生が多い場所だし、
横浜の某銭湯は外国人が多い場所だった。
割礼をする国では、みんなむけてて当然だし
一方で、割礼しない国では、みんな皮があって当然のはずだ。
割礼しない日本では、横浜の銭湯のように、みな皮があるべきなのに
半数近くが皮がむけているのは奇妙なことなのだ・・・どうしてだろう。
一つは、やはり美容整形を受ける人が相当数いるということだろう。
そして、皮を反転させた状態でそのままにしている人もいるよね。
中には、お風呂に入るときだけ皮を反転させる人もいるようだ。
この「見栄むき」は、いったん反転させて安定する人はいいけれども、
皮が戻る人は、お風呂で何度も皮を反転しなおすので、ちょっと忙しい。
それで、戻らないよういっそのこと手術しちゃおうかなと思う人がいるのだろう。
恥ずかしさとかいろいろ言うけど、すべてはチンコを見せるのが目的だ。
自分が思う理想のチンコじゃないと人には見せたくないという見栄がある。
むけてないと子供みたいだとか、不衛生だとか、はたまた
彼女にきらわれるなどの発想をしているのだろうけど、
その理想のチンコのイメージは、どうやってつくりあげたのか。
そう、過剰な宣伝や情報がしっかりと頭にインプットされているはず。
包茎は「Phimosis」と英訳されるが、それは口が狭くて反転できない
すなわち真性包茎のことだ。
包茎を見たまんま、皮がついているという意味で使うのであれば
uncircumcised(未割礼)もしくはuncut(切ってない)の方が意味が近いね。
皮の状態を大きく分類すると、
①circumcised(割礼済) と ②uncircumcised(未割礼)
そして②未割礼の人はさらに以下に分けられる
③phimosis(真性包茎・反転できない) と ④正常(反転できる)
世界的に包茎は、③の反転できない真性包茎のことだと思うが、
日本の定義だと、包茎は②すなわち③と④の全部を含んでいるように思われる。
この定義なら、日本男子は例外なく100%全員が包茎が基本。
成長していくと、亀頭と包皮が分離され、包皮が反転できるようになる。
ここで包皮にトラブルがあれば、③となり、手術などの処置が必要だ。
順調に成長して反転できた④は、本来は「正常」と言うべきところなのに、
日本ではこの④に対し、仮性包茎という紛らわしい言葉を使う。
正常な大人の男子にあたかも包茎っぽい印象を与え、誤解させているのだ。
だから一部が美容整形を受けて、①の割礼済に進んでいく。
日本だと包茎という言葉に、恥ずかしさやバカにした感じが含まれる。
もうそろそろ仮性包茎なんて紛らわしい言葉をやめることを提案するね。
もちろん、黒光りのするズルムケが格好いいと思うのは自由だから、
それぞれの判断で美容整形に行くのもよいだろう。
見られて恥ずかしいはいいとして、僕が心配なのは③の反転できない人。
割礼をする国では③の問題は容易にクリアできるけれども
割礼しない国では、ケアしたり、ちゃんと教育や指導をすることが必要だ。
以前紹介した性教育ビデオは、主人公が皮を反転させ亀頭の状態を
確認したり、お風呂で亀頭を露出させて洗うことを実演していた。
他にも、真性包茎で皮がむけない子、割礼を受けた子も映像で紹介して
いたので、内容としてはよくわかったと思う。
見せる性教育
SEXUELE VOORLICHTING
中国の性教育のビデオも結構ふみこんだ内容を提示していたよね。
包茎の説明では、やはり皮がむけない「包茎」の事例を実写で紹介していた。
皮を反転する人も、亀頭に恥垢がべったりついているのも見せているし、
お風呂にはいったら、皮をむいてきれいに洗うのも実写で見せている。
見せる性教育(3)
男孩、女孩青春期教育系列专题片-生理篇4
中国では、検診時にも皮がむけるか確認するので、よいことだね。
それに比べ、日本では割礼の習慣はないし、性器の話題も出しにくい。
皮が反転できるかチェックされることも、事実上ないだろう。
こうして反転できないまま大人になる人が多数存在していると思われる。
親がしっかりケアするか、あるいは性教育をしっかりやるしかないだろう。
海外のように具体的で、はっきり伝えるビデオがあればいいだろうね。
裸の表現の是非について
今までオペラの表現について、いくつか事例をあげてきた。実際にオペラにおける全裸での表現については、すべての人が賛同しているわけではないだろう。中には非常に反発をしている人もいると思う。しかし賛否両論ある中でも、演出家は自分の主張として全裸の表現が必要と考えれば、それを実行に移していく。それは、やはり芸術としての立場があるからなのだろう。
もしロックバンドが出てきて、いきなりパンツを脱いで歌い始めたとしたらどうだろう。単なる露出狂としか扱われないかもしれないよね。でもその歌のメッセージやダンスの内容や、その他何かの芸術性を意図したものであれが、裸での演出が絶対にだめということはないだろう。単純に裸そのものが駄目という考え方は極端で、無理があると思う。裸が何か悪いこととか、間違った問題ということはないはずだからだ。裸を見ることも悪いことではないはずだし、芸術の中で裸の表現があること自体も決して悪とは思えない。テレビのような公共の電波に乗せてよいかどうかは別として、芸術における表現の自由は守ってほしいね。
逆にもし芸術の世界で、裸の表現を否定するとちょっと大変なことになりそうだ。システィーナ礼拝堂の天井画はまだ木の実を食べる前のアダムであっても、イチジク以外の何かの葉で股間を修正しなくてはならなくなるだろう。ダビデ像はモロ出しで立っているのを避けるために、ふんどしが着用されるかもしれない。そんな高度な美術作品ばかりではない、町の体育館のブロンズ像もパンツやブラジャー着用になるのかな。どうしても裸を見せちゃいけないという主張が通るならば、そうせざるを得なくなると思う。
子供における裸の芸術表現は大人以上に厳しくなるのではないか。たとえば公園の小便小僧はオムツ着用で、小便の放水も中止されることになるのかな。こんな考え方ができるかもしれない。公園の池に小便小娘(※)なんて見たことないし、そんなものを公園に設置しようとしても許可はされないだろう。ならば小便小僧だって公の場に置くことは許されないのではないかとね。まさか、小便小僧が児童ポルノにあたるからけしからんなんて考える人は世の中にいないと思うけどな。(※コメントにも書きましたが、実は小便小娘の像は実在するらしいです)
確かに、裸の表現をした場合に、完全に性的な描写やイメージをそこから排除することは難しいのもわかる。だからといって、すべて否定されるのは違うと思う。しっかりとした判定基準もないまま児童ポルノ禁止だけが一人歩きした場合、こんな極端なところまで行き着く可能性も否定できないと思うね。
もしロックバンドが出てきて、いきなりパンツを脱いで歌い始めたとしたらどうだろう。単なる露出狂としか扱われないかもしれないよね。でもその歌のメッセージやダンスの内容や、その他何かの芸術性を意図したものであれが、裸での演出が絶対にだめということはないだろう。単純に裸そのものが駄目という考え方は極端で、無理があると思う。裸が何か悪いこととか、間違った問題ということはないはずだからだ。裸を見ることも悪いことではないはずだし、芸術の中で裸の表現があること自体も決して悪とは思えない。テレビのような公共の電波に乗せてよいかどうかは別として、芸術における表現の自由は守ってほしいね。
逆にもし芸術の世界で、裸の表現を否定するとちょっと大変なことになりそうだ。システィーナ礼拝堂の天井画はまだ木の実を食べる前のアダムであっても、イチジク以外の何かの葉で股間を修正しなくてはならなくなるだろう。ダビデ像はモロ出しで立っているのを避けるために、ふんどしが着用されるかもしれない。そんな高度な美術作品ばかりではない、町の体育館のブロンズ像もパンツやブラジャー着用になるのかな。どうしても裸を見せちゃいけないという主張が通るならば、そうせざるを得なくなると思う。
子供における裸の芸術表現は大人以上に厳しくなるのではないか。たとえば公園の小便小僧はオムツ着用で、小便の放水も中止されることになるのかな。こんな考え方ができるかもしれない。公園の池に小便小娘(※)なんて見たことないし、そんなものを公園に設置しようとしても許可はされないだろう。ならば小便小僧だって公の場に置くことは許されないのではないかとね。まさか、小便小僧が児童ポルノにあたるからけしからんなんて考える人は世の中にいないと思うけどな。(※コメントにも書きましたが、実は小便小娘の像は実在するらしいです)
確かに、裸の表現をした場合に、完全に性的な描写やイメージをそこから排除することは難しいのもわかる。だからといって、すべて否定されるのは違うと思う。しっかりとした判定基準もないまま児童ポルノ禁止だけが一人歩きした場合、こんな極端なところまで行き着く可能性も否定できないと思うね。
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